【不死身の男】ルーデルの驚異的な戦績とその後の人生

気になる話


戦争の歴史をひもとくと、常識では考えられないような人物が時に登場する。
不死身とまで言われ、常人ならとうに脱落しているはずの状況でもなお前線に立ち続けた者。
その存在はやがて伝説となった。

今回紹介するのは、そんな「伝説」のひとり。

ドイツ軍のパイロットとして多大な功績を挙げ、急降下爆撃で多くの戦車や装甲車を破壊した男。
その破壊力は“一人で一個師団に匹敵する”とまで言われ、敵味方問わず畏れられた。
何度撃墜されても病院から抜け出し、再び空へと舞い戻る。
その執念に、ついにはヒトラー自身が「面と向かっては言いにくいが、もうこれ以上は飛ぶな」と諫めたほどである。

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル――



彼の名は、今なお歴史に刻まれ続けている。

彼はなぜ不死身とまで言われたのか、彼の戦果、そしてどのような人物であったのでしょうか。

ルーデルの少年時代

1916年7月2日、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルはドイツ帝国・ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)に生まれた。
父は牧師、家は敬虔なプロテスタント家庭で、質素かつ厳格な教育のもとで育てられたという。

少年時代のルーデルは、意外にも「優等生」とはほど遠い存在だった。

8歳のころは2階から傘を持って飛び降りて飛行を試みるという奇行まで見られた。
成績は平凡で、特に理論的な教科にはあまり関心を示さなかったが、運動神経は抜群だった。
スキー、陸上、水泳などあらゆるスポーツに秀でており、青年時代にはスポーツ奨学生として大学に進んだほどである。

ナチスが政権を握った1933年、ルーデルは自然とその影響を受けつつも、特定の政治的思想にのめり込むことはなかった。
ただ一つ、心を惹かれたのは「飛ぶこと」だった。
空への憧れは強く、軍に志願してからも、爆撃機操縦士の訓練に進んだが――当初は教官から“操縦に向かない”と判断されるほどの劣等生だった。

だが、ここからがルーデルの真骨頂である。
並外れた粘り強さと精神力で、自らの欠点を克服。
やがて彼は、世界が恐れた“最強の急降下爆撃機パイロット”として覚醒していく――。

恐怖の急降下爆撃

Bundesarchiv, Bild 101I-676-7972-06 / CC BY-SA 3.0 DE / Wikimedia Commons

ルーデルの代名詞――それがJu 87 スツーカによる急降下爆撃である。

この戦術は、敵に心理的恐怖を与える点でも群を抜いていた。
スツーカが急降下に入るときに鳴らす**“シュトゥーカ・サイレン(通称:ジェリコのラッパ)”**は、爆撃の直前に高周波の音を響かせる。
この音は、ソ連軍を恐怖のどん底に陥らせるには充分であった。

そしてルーデルはこのスツーカを完全に自分の武器と化していた。
急降下時の命中率は驚異的で、ソ連軍のT-34戦車や装甲車を次々に粉砕
通常、飛行中に砲撃を加えるだけでも難しいはずが、ルーデルはわずか数秒の急降下中に正確に直撃させる技術を身につけていた。

その正確さは、もはや職人芸の域。
彼の爆撃を受けた戦場では、まるで“空からハンマーが降ってきた”ように、陸上兵器が次々と破壊されていった。

ときには、敵戦車がルーデルの機体に機関銃を浴びせながら突進してきたが、ルーデルは冷静に急降下し、車体の装甲の薄い部分を見極めて撃破したという逸話すらある。

さらに、後年ルーデルはJu 87 G型という対戦車専用改良機に乗り換え、37mm機関砲を外付けした。
これにより、「空飛ぶ対戦車砲」としての凶悪さに磨きがかかることになる。

敵にとって、空からスツーカのサイレンが聞こえたとき、それは死神の訪れを意味していた。
そして、その操縦桿を握っていたのが――ハンス・ウルリッヒ・ルーデルである。

圧倒的な戦果

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルが残した戦果は、あまりにも常識離れしていた。
その記録は、単なる“エース・パイロット”という言葉では収まりきらない。

彼の総出撃回数は2,530回。これは第二次世界大戦のあらゆる航空パイロットの中でも最多とされており、しかもそのほとんどが実戦での攻撃任務だった。

休暇をほとんど取らず、撃墜されても病院から脱走して戻ってくる――そんな行動を何度も繰り返した結果である。

戦果は桁違いだ。

  • 戦車 519輌を破壊
  • 車輌 800輌以上を撃破
  • 火砲・対空砲陣地 150基以上を破壊
  • 戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を撃沈または大破
  • 上陸用舟艇 70隻以上を撃沈
  • 装甲列車4本を破壊
  • 航空機9機を撃墜(自機は爆撃機であるにもかかわらず)

これほどの戦果をあげながら、ルーデル自身は敵機に一度も撃墜されていない(すべて対空砲火による被弾)。
つまり、空中戦においても無敗のまま戦争を終えているのである。

これらの実績はドイツ軍内でも群を抜いており、彼に与えられたのは、ドイツの最高勲章「柏葉剣付金ダイヤモンド騎士鉄十字章」。

この勲章を受け取ったのはルーデルただ一人である。

「一人で一個師団に匹敵する」――
そう評されたのは、誇張でも比喩でもない。ルーデルの存在そのものが“兵器”だった。

撃墜王と被撃墜王

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、まさに「撃墜王」だった。
戦場では彼一人の出撃によって戦況が動いたことさえあり、彼は空の魔王と恐れられた。

だが、そんな彼にはもう一つの“異名”がある。
それが――被撃墜王である。

ルーデルは生涯で30回以上撃墜されている
普通のパイロットであれば1度撃墜されただけでも長期療養や退役になるが、彼は違った。
撃墜されても、そのたびに這って脱出し、部隊へ戻り、再び空へ。
時には敵地に不時着し、仲間を背負って徒歩で数十キロを脱出するという“戦場のファンタジー”のような実話すらある。

極めつけは、右脚を失ってからも出撃を続けたことだ。
通常の兵士なら即退役となるような重傷にもかかわらず、ルーデルは義足を装着し、ほぼリハビリ期間ゼロで再びスツーカに乗り込んだ。
その執念には上官も恐れを抱き、ついにはヒトラーまでもが「もう飛ぶな」と言ったという逸話が残る。

つまりルーデルは、
最も多くを撃破した男であり、最も多く撃墜された男でもあった。
常人には両立し得ないこの“矛盾”こそが、ルーデルという存在の真骨頂なのかもしれない。

死因

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、1982年12月18日に西ドイツ・バイエルン州ローゼンハイムで、脳卒中により亡くなりました。
享年66歳です。

彼は1970年にも一度脳卒中を経験し、生還していますが、12年後の再発によってその生涯を閉じることになりました。

葬儀は1982年12月22日にドルンハウゼンで執り行われ、多くの戦友や関係者が参列しました。

儀式中には、当時のドイツ空軍(ブンデスルフトヴァッフェ)のF‑4ファントム戦闘機が、ルーデルの墓所上空を低空飛行する場面があり、一部報道ではこれが故人に敬意を払う「最期の敬礼」であるとされましたが、軍当局は通常訓練による飛行だと説明しています

まとめ

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、まさに「伝説」と呼ぶにふさわしい人物だった。
圧倒的な戦果、異常なまでの執念、不死身とも言われた戦場での生還劇――そのすべてが常軌を逸していた。

一方で、彼の政治的立場や戦後の言動は、今なお評価が分かれる要因でもある。
英雄か、狂気か。
その答えは、時代を超えてなお、簡単には出せない。

ただ一つ確かなのは、彼の名が今もなお語り継がれているという事実である。

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